Born in the 90's

C-C-Bと米川英之さんへの好きを綴るブログ。見た・聴いたものの記録など。

米川さんを推すことは、自分らしさと自由の象徴であった(~2023年の話)

 

怒涛だった2023年も、もうすぐ終わろうとしている。

今年のトピックは何といっても、念願の米川さんのライブに初めて行けたことであろう。

 

思い返せばこの一年は、とにかく推し活に全振りした年であった。

しかし私がこのように自由にライブに行けるようになるまでには、一言では書き表せないくらい様々な困難があった。

そんな2023年と、そこに至るまでを振り返ってみたい。

 

 

 

 

大学院時代の話

今年を振り返るにあたって、まずは現在の私の状況に繋がっている大学院時代の話から始めなければならない。

 

時は2020年、期待を胸に大学院に進学した私は、研究の行き詰まりとアルバイトでの失敗が重なり、全ての自信を失ってドン底に陥っていた。

不幸なことに私の院生生活はコロナ禍のスタートとも重なり、2年間本当に思い通りに行かないことばかりであった。

何とか修士論文を提出して修了したはものの、全てのことに疲れ切ってしまった私は、もはや自分の未来を自力で切り開く力も無く、不本意ながらも(そして親には大変申し訳ないが)京都から一旦実家に戻ることとなった。

 

私の住む岐阜県某市は、笑ってしまうほど何もない所だ。遊ぶとなると、大型スーパーに行くかカラオケに行くかくらいしかない。まじで。

まぁ、私がどこにでもいるような20代・女だったら、別にそれでもよかったのかもしれない。

しかし私は、実家に戻ることで自身の一部をもぎ取られるような思いがした。

何故なら、私は生粋の舞台ヲタクだったからだ。

 

大学生~大学院生時代、私は舞台観劇を生きがいとしていた。

特に熱を注いでいたのは宝塚歌劇であるが(余談だが、例の事件には心を痛めたし、劇団の対応には失望が募るばかりであるが、今はC-C-Bと米川さんに沢山幸せにして貰っている為、幸いにもダメージはさほど大きくない)、歌舞伎やミュージカル、オペラ、バレエ、文楽など、実に様々なジャンルの舞台を見まくっていた。

多い年には通算50公演を観劇したこともあったし、西へ東へ遠征を重ね、卒論でも修論でも宝塚を扱い、舞台関係のアルバイトやインターンを経験し、まさに舞台漬けの日々を送っていた。

 

好きをエネルギーにして様々なことに取り組むこと、それが一番私が私であると実感できる瞬間だったし、周りの人からもそれこそが私らしいと言われていた。

 

以上のように、今でこそジャンルは異なれど、エンタメに身を焦がしているのが私の本質であり、私の人生というわけである。

しかしド田舎の実家に戻るとなると、今までのような生き方を送ることは当然ながら不可能だ。

そこで私は、「自分の力で再び舞台を観劇すること」(とりわけ、再び宝塚歌劇を見ること・宝塚の地を踏むこと)を目標に、Re:Birthを図ることとなった。

 

 

C-C-Bと出会い、そして働き始めた6月

2022年6月、私はとある昭和のアーティストと出会い、そして夢中になった。

そう――C-C-Bである。

 

奇しくもそれは、私が少しずつ働けるかなと思い、今の仕事先でアルバイトを始めたタイミングとほぼ重なる。

よって私がC-C-Bを愛した期間はそのまま、自分が頑張って働いてきた軌跡なのだ。

 

毎日毎日、何かに取り憑かれたようにC-C-Bの曲を聴いては、数えきれないほどの楽しみとワクワク感とトキメキと勇気と生きるエネルギーを得た。

また米川さんという、「この人を本気で応援したい」と思える存在にも出会い、いつか米川さんのライブに行くという人生の新たな目標も生まれた。

 

辛い時に出会い、そして支えになったC-C-Bと米川さんのことは、一生忘れないであろう。

 

 

とにかく働いた、そしてついに宝塚を見た

C-C-Bと米川さんが新たな心の拠り所に加わり、私はとにかく頑張って労働した。

世間一般的な働き方ができない自分が情けなくて、みっともなくて、惨めで、何度も苦しい思いをした。でもこれしかできないから、自分のやれることを精一杯やった。

幸いにも無理なく楽しく続けられて、段階を踏んで勤務日数や時間を増やしていった。念願の社保加入も果たすことができた。

 

そして2022年12月、ついに目標であった宝塚を観劇した。全国ツアー公演を、わざわざ広島まで見に行った。

本当は8月に本拠地で観劇する予定であったが、コロナで公演が中止になってしまい見ることが叶わなかったので、嬉しさもひとしお。

私にとって、約一年ぶりのタカラヅカ。劇中のとあるシーンでは涙が止まらなくなってしまい、声を抑えるのに必死だった。

 

 

このように、頑張って働いて自分の力で舞台を観劇できて、やっと自分らしさを取り戻す旅のスタートラインに立てたと思って、喜びと達成感に満ち溢れた。

 

これを皮切りに、どんどん私らしく見たいものを見に行こう。すでにチケットも何枚か取った。そしていずれは…米川さんのライブにも行きたい。

 

きっと2023年も幕開きから素晴らしい一年になる。

 

そう思っていた。この時までは。

 

 

母の病気と遠征断念、絶望

秋ごろから母が体調を崩すことが多くなり、冬に検査入院。

ちょうどその頃に、笠さんの訃報を聞いた。母も笠さんみたいになってしまうのではないかと不安でいっぱいになり、二重にメンタルがやられた。

 

その後一旦退院した母から、「コロナ感染が怖いから、今後一人暮らしをするまで遠出はしないで欲しい」という旨を伝えられた。

もちろん母の体調が第一なのは分かっているし、ここで自分の愉しみを優先するのは非情である。

しかし、頑張って頑張ってやっと自分の力で好きなものを楽しめるようになった矢先に…と思った。

生きる希望が断たれ、絶望とはまさにこういうことを言うのだと感じた。

そして、自由になれる翼を折られてしまった気持ちであった。

もちろんすぐに一人暮らしを始められるような状況でもなく、先の見えなさに再びドン底に落ちてしまった。

 

私は歌舞伎のお切符と、それから宝塚のチケットを泣く泣く手放した。

 

 

父との対話、そして再び遠征

年が明けて、母再び入院。

2月のとある日、久々に父と対話する機会があった。

過去に色々あったので父と腹を割って話すのは怖かったが、遠征を断念したことや、再び舞台や音楽に触れることが私の生きる希望であるのに、それが断たれてしまった今とても辛いということを思い切って伝えた。

 

すると父は、「自分で稼いだお金だし、行ったらいい」と言ってくれた。あの父に頑張りを認めてもらえた。ラッキーチャンスが起きたのだ。

それから一週間足らずで、私は宝塚のチケットを必死になってリセールでもぎ取り、そして次の週には宝塚を観劇した。ヲタクは何度でも蘇るのさ、ふはは!という感じである。

一年以上ぶりに本拠地を自分の足で踏みしめ、涙がこぼれた。本当に頑張ってきてよかったと心から思った。

 

 

米川さんのライブに行くことが生きがいとなった

そして3月、その時が来た。ついに米川さんのライブに行ったのだ。

ライブハウスは未経験だったため、初参戦は本当に勇気の要ることであったが、どうしても行きたい、米川さんの音楽を生で聴いてみたいとの気持ちが勝ったため、チケットを取った。

一年弱、ずっと憧れていた画面の中の人に会えたことは、この上ない喜びであった。

そしていつしか、米川さんが自分の一番の心の支えになっていたことを実感した。

 

それから生の魅力に取り憑かれた私は、行けそうなところは全部行ってやる精神で、今年はなんと9回もライブに行くことができた。とにかく推し活に全力投球した一年だったが、これこそ自分だ!と心から思えた。

東京に名古屋、京都と、まさに「どこにだって行けんだ」と思い、自由を謳歌することもできた。

 

一年働き続けることは本当にしんどかったが、また次のライブがあるからこそ何とか働くことができた。

普段の生活は本当に地味で芋くて泥臭いけれども、この一瞬のキラキラした楽しい時間のために日々をこなしていると思い、ライブに行くことがまさに生きがいとなった。

2023年ここまで頑張ってこれたのは、間違いなく米川さんのおかげである。

 

 

おわりに

以上のように、私が今年自由に推し活を楽しめるようになるまでに、本当に様々な困難があった。

なお、遠征に関して父が母に伝えてくれたのは分からないが、母は私が買った全国各地のお土産をいつも喜んでくれたということは付け加えておく。

改めて、自由に行かせてくれる家族に感謝しなければいけない。

 

 

相変わらず不安定な身の上で、未来は全く明るくない。

家族のことだって、今後どうなるか分からない。

事実、現在母は再び入院しているし、今は働きながら身の回りのことを全て自分でこなさなければいけないことに、困難を感じている。

 

でも私は決して、米川さんを推すことを手放したくない。

純粋に米川さんが大好きであるのに加え、それが自分らしさであり、自由の象徴でもあるから。